何たる迷惑であることか!

独自の路線で生きています

物語になれない

 

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 父のことを書こうと思うと、喉のあたりに硬いものが、ぐっとつっかえるのを感じる。

 言葉にするのは終わらせることと同義だ。現在進行形の出来事に巻き込まれている間は、言葉にすることができない。逆に言えば、巻き込まれ、とらわれている心を、言葉にすることで解放できるかもしれない。少しでも葛藤から解放されたくて、この文章を書いている。

 

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現状

 私の父は現在60代。社会における定年には達していないが、もう10年以上は働かず、家に引きこもり続けている。いわゆる「高齢ひきこもり」だ。「ひきこもり」と言っても外出できないわけではない。むしろ外出はよくしている。が、労働をはじめとして社会活動を、この10年以上はほぼしていない。

 何をするでもなく、一日中インターネットを見て、テレビを見て、ひたすら自分の殻にこもって暮らしている。生活の収入源は、主に年金である。年金が出るまでは、退職金を元に貯蓄を崩して生活していた。50歳になる少し前に退職して、年金が出たのが60歳だから、10年近く無収入で生活していたことになる。その頃学生だった私が言うのも何だが、よく生活できたものだと思う。

 そんな無為の生活で、口から出てくるのはテレビやインターネットで見聞きした芸能人のゴシップと、yahoo!のコメント欄で吹き込まれた悪口ばかり。社会に出て働いているものすべてを憎んでおり、もっぱら会社員の娘が気に入らない。「働いてるのがそんなに偉いんですかぁ」と、言葉や態度で嫌がらせをしてくる。手が出ることもある。そんな人間を身内に持ってしまった家庭がしあわせであるはずがなかった。

 ひとことで言うと、「キレやすい迷惑老人」である。その心は被害者意識に支配されている。こんなに苦しいのに、なぜ誰も助けてくれないのだ、俺はかわいそうだ、と。

 

ことの始まり

 父は関西の出身で、昭和20年代末期に、商店街でパン屋をしていた祖父母の下に生まれた。おりしも日本は高度経済成長期に差し掛かったところ。朝は早く、夜は遅くまで働きづめの生活は楽ではなかったが、貧しいのは皆同じだったし、今頑張れば明日はもっと良くなる、という素朴な希望を誰もが抱くことが出来た時代だった。祖父は小学校以降の正規教育をほぼ受けておらず、苦労して手に職をつけ戦後の混乱期を生き抜いた人だった。そのため、息子には何としても大学を出て欲しがったという。祖父の悲願を背負い、父は関西の大学を出て、東京の大企業に就職した。帝大卒でなければ都内の有名私大卒でもない、徒手空拳の若者が将来性にかけて大企業に就職できる、牧歌的な時代であった。その後、持ち前の生真面目さでバブルの風に踊らされることもなく、30年近く新卒入社した会社で、コツコツと働き続けた。年功序列が生きていた時代だったので、順調に管理職として出世していったようだった。 

 父の人生がねじれ始めたのは、その会社を辞めてからである。父は自他共に認める「仕事人間」で、会社以外の人脈が薄かった。退職したことで社会との接点を完全に失ってしまい、父は病み始めた。

 父が会社を辞めた理由はよくわからない。漏れ聞いたところによると、退職直前に父はうつ状態に陥っていたらしく、実験中に手順を失敗して小火を起こしたこともあるという。火を消すために消火器を使用したため、始末書を書かされたことをいつか愚痴っていた。曰く「自分の社会人人生の中でありえないミスだった」とのこと。元の性格が極めて不安症で慎重派だった分、実験のミスの少なさを自負していた。それが、病気によって蝕まれたのだ。この失敗が決定打となり、父は「うつの時に大きな決断をしてはいけない」という禁忌を破って退職へ走ることとなる。

 

暗転

 退職後の当ては、「資格を取って士業として就職する」ことだった。しかし、目指した資格が国家資格で、かつ極めて難しい部類のものであったことが災いした。父は受験に挑戦しては失敗する日々を繰り返した。一次試験に失敗すること7年。万年受験勉強のような生活に父は疲弊しきり、心はさらにねじれていった。

 失敗続きの受験勉強に明け暮れる中、降って湧いた祖父母の介護が追い討ちを掛けた。その辺りのことは以下の記事に書いてある。

 

kinaco68.hatenablog.com

 

 介護生活は、端的に言って地獄であった。しかし、受験勉強から逃れたい、無為徒食の自分を見つめたくない父にとっては福音であったようで、父は積極的に介護に打ち込んだ。その結果、介護の中心人物であった祖父が亡くなった後は、身も世もないほどに憔悴し、虚になった。祖父の死後、4年も経った現在も父は虚のままである。そんな父を、情けないとも恥ずかしいとも私は思っていた。

 

感謝している点

 父がこうなって何が辛いのか。それは、父がもともとはこんなに人間ではなかったからである。無為に日々を費やし、ひたすら悪口を垂れ流すような人間ではなかったからである。会社員だったころの父は、今や絶滅寸前の家父長制の権化のようなひとであった。家族の中で強権を振るい、他人の意見を聞かない暴君ではあったけれど、責任感があり、約束は必ず守るひとだった。酒に溺れることもなく、頼り甲斐のある男性であった。向上心が高く、本が大好きで、博識かつユーモアにあふれた人だった。

 ひとり娘の私が、馬鹿高い学費のかかる私立の高校を出て、大学院まで行った時も学費は全部払ってくれた。仕送りも欠かさずしてくれた。子供のためとはいえ、自分の時間と稼いだお金を遣ってくれたこと。これは大変なことで、非常に感謝している。

 だからこそ、今の境遇が辛いのだ。私が好きだった父は、日を追って擦り切れていく。社会に対して僻み嫉むばかりの老人に落ちぶれていく父が、やるせないのである。

 

どうしてこうなった 

 父が高齢ひきこもりに陥ってしまった理由について、卑見を述べる。

 父が就職し、会社員として活躍していた時代は、戦後日本が成長と爛熟していった時代と被っている。毎年給料は右肩上がり、夏と冬にボーナスがあり、一軒家と新車が買えた時代である。豊かであることが当たり前の時代に、社会人としての経験を積んでしまったがために、父は自分の実力が社会によって下駄を履かされていたことに気づかなかった。地方出身の凡庸な人間がうっかり東京のエリート集団に混ざってしまったことで、自分もエリートであると錯覚してしまったことに父の不幸はあるように思う。

 もちろん、ただ時代の波だけで大企業に長居できるとは思えないので、父の努力ももちろんあった、とは思う。しかし、実力以上に評価されてしまった成功体験が、ダウングレードを受け入れられない枷となって父を苦しめる結果となってしまった。父が再就職を目指すころには、「大企業の課長やってました」に何の価値もない時代になってしまっていたのである。それでは、再就職の気力も萎えるというものだ。ひとかどの人物である、と思っていた自分が、いつの間にか何者でもなくなってしまうなんて。

 

 ここまで書いてみて、喪失を受け入れる準備ができた。父の体はあっても、だいぶ前に魂は失われてしまっていたのだ。いかに社会の動きに置いて行かれたとしても、結局は個人の責任である。私の愛した父は、もうどこにもいないのだ。

  

 虫の死骸を樹脂でくるんで琥珀ができるように、人間も美しい物語になれればいいのにな。

 生きている限り、物語になれない。