何たる迷惑であることか!

独自の路線で生きています

現代の夏目漱石あらわる 上田啓太「人は2000連休を与えられるとどうなるのか?」を読む

問:人は2000連休を与えられるとどうなるのか?

(自分なりの)答:狂気に接近する。

 

無職の才能がない

 以前、見知らぬ土地で完全に無職になったことがある。

 夫の転勤についていくために仕事を辞め、地方都市で一週間ほど専業主婦をしていたのだ。それまでの仕事は夜間呼び出しも頻繁にある、それなりにハードなものだったので、家事と買い物だけしていれば良い専業主婦の生活は優雅なものだと思っていた。

 現実は全然違った。

こんな感じになった

 毎日、焦りと恐怖で押しつぶされそうだった。何をするにもお金がかかる。収入はないのに、貯金はどんどん減っていく。生きているだけで減っていく通帳の残高を見るたび、自分の命を食べているような感覚に陥った。誰も私を知らない土地。誰も私を必要としない世界。家庭があるものの、それ以外にどこにも所属する場所がない。社会的な何からも繋ぎ留めてもらえない。自分の存在は糸の切れた凧のように不安定だった。急にできた膨大な暇に、溶けて消えそうな自分の存在の軽さに耐えられなかった。

 たまらず地元のハローワークに駆け込み、職業訓練を経て新しい職場へ就職し、現在に至る。

 無職を貫くためには、お金がかからない生活ができなければいけない。それ以外にも私には、とにかく欲が多すぎた。無職を貫くほどの知恵もなければ根性もない。仕事に就いているほうがよほど気楽である。私には無職の才能がない。そう痛感した経験であった。

 そんな私なので、長きにわたり無職を続けている人間に興味があった。なにせ、私の父が長いこと無職だったのだ。父の場合、2000連休どころか5000連休以上の長期連休経験者である。15年超の連休中にはいろいろなことがあったが、ついぞ私は連休中の父の心中を知ることができなかった。長期連休経験者の心のうちが知りたくて、この本を買った。

 往時のオモコロ*1で、名作記事を連発していた上田啓太氏初の単著である。

↓オモコロ時代の上田さんの傑作記事。

omocoro.jp

はてな界隈では「真顔日記」の上田さん、の方が通りがいいかもしれない。

diary.uedakeita.net

note.com

 

現代の夏目漱石

 上田氏の文章には独特のリズムがある。これが、読み進めるうちに得も言われぬ心地よさを生む。声に出して読みたくなる文章である。何でもないような日常をユーモアに包んで笑わせる。文章の構造が明快でわかりやすい中に、深遠な内容を描いている。

 飛び込んできたネコは、その後も当たり前のように家にいる。われわれは毛玉という名前をつけた。(中略)

 杉松は毛玉を飼うことを決意したようだ。獣医にも伝えた。週2回、輸液という作業をすることになった。完治はしないが多少はマシになるという。私が毛玉をおさえて杉松が注射する。正式に通院カードも作成した。カードには毛玉ではない名前が記されていた。受付で反射的に別の名前を伝えたらしい。

 

「だって、毛玉ってバカみたいじゃん!」と杉松は言った。

 

 たしかにバカみたいだが、バカみたいな名前で呼んでいたんだから仕方ないじゃないか。

 われわれはバカなのだ。

 バカを隠すな。

 上記の文章を心で読み上げる際、ナレーターはキートン山田のようなとぼけた声質を選んでみるとなお良い。村上春樹は、作家の文章には全て音楽的なリズムがあり、訓練で得られるものというよりは作家本人の身体の個性であると述べたが、なるほど上田氏の文章は文豪のリズムがあるように思う。「吾輩は猫である。名前はまだない」に通じるリズムである。上田氏は現代の夏目漱石である。作中によくネコも出てくるし。

 

なぜ2000連休へ向かったのか

 自分の中に、強い拒絶の感覚がある。世間を拒絶しているのか、人間を拒絶しているのか、この世界自体が嫌なのか。そのあたりが自分でも分からない。世界の価値観を拒絶しているのならば、それに反抗し、自分の信じる世界感を強く主張することもできそうな気がする。そうした方向にも進まない。世間に反抗するほどの強固な自我もない。

 上田氏は京大の工学部を卒業後、東京でお笑い芸人として活動するが芽が出ず、流れ着いた京都で知人の家へ転がり込む。知人・杉松氏の1畳半の小部屋*2で、ひきこもり続けること6年間。連休中も、少ないながら安定した収入源はあったとはいえ、前述のように無職を続けるには無欲さと根性がいる。上田氏の中には世間に迎合できない、したくない、という意思があった。それは離人感という形で上田氏の中に存在しており、連休生活が続くうちに、より高度で深遠な思考へと進行していく。

 

そして哲学へ

 世界のベースにあるのは無意味と虚無なのだが、人間の使う言語では、それが反転している。無・意味というふうに、まずは意味というものがあって、それが無になると考えてしまう。意味に満ちている世界に、ふいに裂け目が出来て、そこから無意味がのぞくことを人は恐れるのだが、むしろ、意味のほうが泡のように生まれては消えていくもので、この世界にはもともと無意味が無意味として充満している。

 1500連休に差し掛かったあたりから、上田氏の思考は急速に超越的な次元へ加速していく。それは狂気と紙一重、もしくは狂気そのものだ。脳を離れ、肉体を離れ、はるかな高み(ないし深淵)へと突き進む。この辺りの文章のドライブ感は、寒気すらもよおす凄みがある。

 

杉松パートのありがたさ

小部屋でパソコンに向かいながら、私は一人で爆笑している。

 杉松は慣れたもので「何なんだろうねえ、小部屋に変な人がいるねえ」と毛玉に話しかけていた。

 本書は著者である上田氏の内面への旅「哲学パート」と、家主の杉松氏とネコのほのぼのとした日常を描く「杉松パート」で構成されている。*3ブログ「真顔日記」で描かれていたのは「杉松パート」であり、私にとってはこちらが本体である。ともすれば狂気に陥りそうな哲学パートに、杉松パートの日常エピソードが挿入されることで、本書は絶妙なバランスを保っている。

 上田氏と杉松氏*4の関係は、恋人でも夫婦でも友人でもない、でも仲良し、という名伏しがたい関係である。この二人の関係が、読んでいてとても心地よい。「動物のお医者さん」の菱沼さんとハムテル、「チャンネルはそのまま!」の雪丸と山根くんのような、特に恋愛関係に発展しない人間関係が好きな方にはきっとわかっていただけると思う。

雪丸と山根くんは偶然男女であるだけで、絶対に恋愛関係にはならない。バカとバカ係なだけだ
 
ゆきてかえりし物語

 足掛け6年、2000連休を経て、上田氏は職を得る。2000連休は終わり、小部屋を出ていく日が来る。彼は狂気と紙一重の彼岸を垣間見て、また現実世界に戻ってきた。いつだって、青春は就職で終わる。しかし、就職はしても、いちど彼岸へ行った感覚は彼の中に残り続ける。あたかも、「指輪物語」のフロドが旅から帰ってきても、心はずっとあちらの世界にあったように。本書を読み終えると、不思議と物悲しいような、名前をつけられない感動がいつまでも心に残る。上田氏と一緒に読者は旅をして、また帰ってきたのだ。旅に出る前の自分には二度と戻れない。旅をするとはそういうことなのだ。

 

***

 父は、5000連休を経てまた働き始めた。働くのを死ぬほど厭がっていたわりに、就職はスムーズだった。働きぶりは真面目で、精神的にも安定している。悲しいかな、人はどこまでも社会的な動物だ。無職を貫ける心の強さと無欲さがない人は、適当に働いたほうがずっと楽だと思う。

 

追記:本書を読んで、杉松パートに興味を持った方は、下記noteも読むと面白いのでオススメします。

note.com

 

毛玉たち、ネコが出てくるお話が好きな方はこちら。

note.com

*1:その昔、ARuFa、ダ・ヴィンチ・恐山という2大巨頭が現れる前のオモコロは、今よりもずっとテキストサイトの雰囲気が強かったのだ

*2:とは名ばかりの物置だ

*3:私が勝手に名付けただけである

*4:私にとっては31歳女性と呼ばれた方がしっくり来る。真顔日記の古参のファンなので