何たる迷惑であることか!

独自の路線で生きています

祖父が死んだ

 先日、父方の祖父が亡くなった。

 享年89、数えで言えば91歳という長寿での逝去であった。

 年齢だけ見れば大往生といえるのかもしれない。しかし、その死に方はあまりにも明るいものではなかった。

 

 おじいちゃんが壊れた日

 始まりは4年前。2010年の晩夏、未明に祖父から父の携帯に着信が入った。

 

「もう死ぬ、儂は死ぬ、すぐ来てくれ」

 

 すぐ来てくれと言われても、父の居宅は東京、祖父の家は山陰である。2時半に掛かった電話から、「今にも死にそう」な声で喋る祖父を宥めつつ救急車を呼ばせ、朝一番の新幹線で父は祖父の運ばれた病院へ向かった。

 

「精密検査の結果、心臓も脳も異常なしなので帰宅してください」

 

 大騒ぎして運ばれた病院で、祖父は体の隅々まで検査を受けたが、どこにも以上は認められなかった。しかし、既に祖父の内面は壊れていた。

 

 こうして、父(50代無職)が母(50代介護職パート)と交代で東京と山陰を往復する生活が始まった。

 

神が死んだ 

 腕が持ち上がらない、うまく歩けない、頭痛が酷い、何よりも人生初の深刻なうつ状態に陥った祖父は、人格まで別物に変わってしまった。

 

 終戦直前に徴兵され、空襲を命からがら生き延びた後は郷里で店を構え、半世紀以上商売人として立派に生活していた祖父。誠実な人柄と持って生まれた品の良さで、町内の誰からも尊敬された祖父。少ない稼ぎの中から、二人の息子を大学にまでやった祖父。そんな人は既にいなかった。

 

 祖父は生きながら亡霊になってしまったのだ。

 

「もう死ぬ、今度こそ死ぬ、お前に遺言がある」

「母さんはボケとるが、施設に入れることは許さん。お前が最後まで見てやれや」

「親の言うことが聞けんのかお前はええ情けない」

「嫁?誰の金で食わせてもろとる思うんや」

「社会復帰なんどせんでええ。お前は儂のためだけにここへ来い」

「あの女は信用できん。社会福祉士とか何とか知らんが小娘の仕事なん遊びと同じや」

「お前はそんなだから会社から見捨てられるんや。嫁もあんなんやし、女孫しか生まれんとは」

「子供の命は親がやったもんや」

「子供はすべてを捨てて儂に尽くせ」

 

 80過ぎの親が、還暦近い子供を虐待する。喜劇としか言い様がない地獄が始まった。

 

 無職で、長い間就職浪人していた父の自尊心は完全に失われ、父は無力な息子となってしまった。祖父という神は死んだ。天地を繋ぐ柱は折れ、暗雲立ち込める天井が覆いかぶさってきた。

 

 就職活動をしようにも、寝たきりの祖父とアルツハイマーの祖母を抱え、一時も目を離させてもらえない状況では履歴書の一枚も書けず、のろのろと時間が過ぎるのを待つばかりであった。

 

 神たる祖父はいつまでも復活しないし、社会には戻れない、うまくやっていく自信もない。その内に、父の中で社会は悪意に満ちた危険な場所へと変わっていった。

 

親だけが子供の世界

 前いた会社で受けたトラウマが、父の中で社会への不信感と被害妄想を育んだ。

フラストレーションが溜まる一方で、ようやく実子が就職した。その辺りから、父の、筆者への虐待が始まった。

 

「家賃?少なすぎる」

「お前なんかが就職できる会社はどれだけブラック企業なんだ」

「女の社会進出なんて企業には迷惑でしかない。仕事ができないくせに権利ばかり主張する」

「女の子なんて生むだけ無駄だった。美形でなければ生きるだけ無駄だ」

「今頃男の家でのうのうとくらしているんだろう、自分で金を稼ぐ苦労を知らないおめでたい女だ」

「どうしてお前なんだ どうしてお前はお母さんじゃないんだ 体つきも顔も似ているのに どうしてお前はお母さんじゃないんだ!」

 

 躾でも叱責でもなく、父は戯れに筆者を殴るようになった。仕事をして帰ってくれば厭味を言いながら殴り、料理を作れば味付けに憤りながら殴り、ゴミを出せばその量の多さに呆れて殴る。

 

 もう、おしまいだった。

 

午前4時。不思議と予感があった。

 

「おじいちゃん死んだよ」

 

 ああ、よかった。

 

 そう、思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 祖父の葬儀は市営の葬儀場で行われた

 通夜には一人しか参列客がいなかった

 相変わらず独身ニートの叔父は発狂していた

 葬式の参列客は二人だった

 坊さんは経を上げながら歌った 音程が取れていて不可思議なおかしみがあった

 遺体と対面したら祖父は大口を開けた状態だった

 祖母が泣いていた 2秒後に全部忘れた 握った手は冷たかった

 どうしても口は閉まらなかったそうだ

 なんだよこれじゃ生きてるみたいじゃないか

 80kgあってメタボと言われた祖父の体重は死ぬときは37kgだった 

 電気で焼かれた後の骨はかさかさと崩れた

 担当の人が箸で摘んで祖父の骨を解説した

 これは足の指 これは骨盤 肋骨 頭蓋骨

 祖父を苦しめ続けた頸部と後頭部の骨はしぶとく残っていた

 担当の人が骨を骨壷に入れるとき、祖父の頭蓋骨を箸で押して割った

 ひしゃげた髑髏は 形が残らなかった

 もうこれは祖父じゃない 祖父の抜け殻だ

 祖父の魂はもうここにはない もし魂なんてものがあるのなら

 なのになんでこんなに痛いんだ ぞんざいに扱われた痛みが心臓に響くんだ

 

 

 死んでくれ 死んでくれ

 頼むから早く死んでくれ

 とっとと死んでくれ

 もう苦しまないでくれ 楽になってくれ

 もう私達をこれ以上苦しめないでくれ

 

 そう、願って、いたのに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おじいちゃんおじいちゃんおじいちゃんおじいちゃんおじいちゃんおじいちゃん

 

 死んでしまった?

 ようやく死んでくれた?

 楽になった?

  

 目を刺す木々の緑がまぶしい日に、祖父は逝ってしまった。

 

 もう、会えない。