何たる迷惑であることか!

独自の路線で生きています

雑記(2016/06/10)

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 昭和40年代、ではなくれっきとした平成28年の風景。わたしはどんな写真も老化させる技術を持っている。

 

 いまわたしが居る喫茶店は駅ビルの3階にあって、ブラインドが上げられた窓からは地上がよく見える。見下ろす中心といえば、駅前を忙しなく行き交う人々ではなく、空中を突っ切るモノレールでもない。わたしが俯瞰しているのは宗教勧誘のおばさんである。

 

 おばさんは3人ひと組で、どの人も小綺麗な格好をしている。清潔感の白いジャケット、つばの広い帽子、手袋、額を出した髪型。宗教は「Bibleがうんぬん」のあれだ。フレスコ画の劣化コピーみたいな絵が描かれた小冊子を携えて、いかにも無害そうな微笑みを湛えている。炎天の勤行は体力勝負なのか、おばさんたちは5分ごとに交代して路上に立つ。

 なので、わたしが注文を待ち、サンドイッチを食べ、コーヒーを飲み、食後のクッキーを食べるごと、コマ割りのように路上に立つおばさんが変化する。白いジャケットのおばさん、つばの広い婦人帽のおばさん、うやうやしく手袋をして小冊子を携えるおばさん。宗教のおばさんが入れ替わりたち変わったところで何のありがたみもないが(同じ場面を颯爽と歩いて行った若い女の子のホットパンツから伸びた脚のほうがどれだけ有難いかわからない)、不思議とおかしみがあるものだ。

 

 ひとりのおばさんが小冊子を手に微笑んでいる間、残りのおばさんたちは日陰でおしゃべりをしている。きっと、霊験あらたかなる宗教談義に花を咲かしているのであろう。功徳が高すぎて誰も目を合わせられない。行き交う衆生は目線を逸らし耳を塞ぎ、ひときわ足早に御前を通り過ぎるばかりだ。見てはいけないものを見てしまった、というように。

 

 わたしはどんな宗教であろうと個人には信じる自由がある、とは建前として理解してはいる。ただ、偶然にもおばさんたちが進行する宗教は、本人たちではなく家族を、とりわけその子供たちの人生をひどく蝕んだ例を身近に知っていたために、ある種の宗教にはどうしても好意を持つことができないだけだ。偏見といえばそれまでだが、この偏見は自衛手段として悪くないように思える。

 

 あのおばさんたちを見ていると、いわゆる「観念の世界」に生きる人間のアホらしさを見せつけられている気になる。「わたしが思ったことは、逐一世界に反映される」、思い込みの純真さ、そして馬鹿らしさ。おばさんたちの宗教的世界では「骨折りほど尊いものはない」わけだ。炎天下で勤行に励み、誰にも一顧だにされなくても、正しい道を衆生に説く姿勢こそが素晴らしいわけだ。いかに辛い環境で、長時間勤行すればするほどエライわけだ。

 それは、サラリーマンの残業信仰にも似ている。最初は、「こんなこと意味がない」と思う。しかし、「皆がやっているから」自分から拒否することができない。そのうち、長時間残業することが当たり前になってきて、職場に居る時間の長さが仕事の価値であるように思い込む。一年も経てば立派な社畜の出来上がりだ。社畜は生産性も、仕事の質も、自分の人生を考えない。ただ、「長く会社に居ること」こそが価値であり、意味となる。

 

 なんのことはない、ついこの間までわたしもその中にいたではないか!

 

 環境の変化はチャンスだ。ほんとうの意味で「はたらく」とはどういうことなのか、まずは体で覚えていかなければならない。