葬式の時だけ集まる親戚みたいだね
社会人3年目。同期がひとり辞めるというので、会社の近くの中華屋でささやかな送別会を開いたのだった。
ちょうど大きなリリースがあり、予想外の大炎上が起きた最中だったのだけど、同期は驚異的な参加率だった。 地元に戻って家業を継ぐという同期を肴に喋りに喋り、飲みに飲んだ。
そういえばほんの二年前まで、私たちは週末ごとに集まっては酒宴を開いていたのだ。並外れて少ない同期の桜で、寄り添って手を繋いで、笑って……機会というのは意識して作らなければあっという間に無くなってしまうものなのだ。
社会人になって3年も経っていないのに、人生でこれほど激変した年月も無いように思う。高校も大学も大学院も、既に化石としてしか思い出せない。
この年月で、同期が3人入院した。
ひとりは花が枯れるように萎れていった。薬も医者も病名も彼女の役には立たなかった。
ひとりは内なる狂気に喰われ、エタノールの海に沈んだ。今もまだ入院中である。
ひとりは冬空を爆走中、ラブホテルの看板に気を取られて物理的に飛んだ。今は元気に働いている。
歯車になっていると、感覚が麻痺してしまう。 異常は風景になり、誰を踏みつけても感じなくなる。進行性の病は、繋がることでしか止められない。
送別会が捌けた帰りの電車で、同期がこう言った。
「葬式の時だけ集まる親戚みたいだね」
いつもは顔も見せないくせに、事があった時だけやたらと結束するのが親戚。苦楽を共にした間にしか無い連帯感。
時に鬱陶しく、いつまでもあたたかい、絆。