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何たる迷惑であることか!

独自の路線で生きています

四月の晴れた日に精神病院へ行くこと

 黒羊の群れの中に白い羊が一匹混ざっていたら、そいつこそが異端なんだ


 去年のゴールデンウィーク初日。 僕は某駅のバスロータリーに立っていた。 まもなく連れがやって来て、二人で何を話すともなく佇んでいた。
 長雨に到着が遅れた春が、あたり一面にまばゆいばかりの緑を繁らせていた。新緑、若木、燃える花。生命という生命が大気にみなぎろうとしている。

 そうこうしている間にバスが来た。気が付けば背後には列が出来ていた。誰も先を急がず、出来ればバスに乗りたくないと思っているようだ。草臥れた額には諦めと安堵が同居していた。発車ブザーが鳴って、車体がゆっくりと進み出した。
  一応都内ではあるが、区には入れてもらえない某駅のロータリーが遠ざかっていく。市街地を抜け、バスは住宅地から山道を登っていった。途中何度も曲がり角があり、直線ではルートを辿れないようになっている。この道程が、患者の脱走を防ぐ為の隔離措置だと理解したのはずいぶん経ってからだった。

 えらく遠回りをしたバスが、目的地に着いた。モルタル張りの病棟は巨大で、あちこちの壁が剥がれていた。歴史の長い病院だから、建物の老朽化が進んでいるのだろう。それにしても、みどりが眩しい季節にそぐわぬ暗さがその建物にはあった。
大理石の階段を踏んで、玄関を潜ると受付があった。待合ロビーは休日の総合病院と違わず人でごった返していた。一点、総合病院の風景と違うのは、各受付に診療科の表示が出ていないことだけだった。ここは精神病院、診療する科はひとつしかない。

 見舞いカードに、自分の名前と患者との間柄を書き込んでスタッフに渡す。カードの内容を確認したスタッフは、オレンジ色のバッジを引き換えに渡してくれた。バッジの針をジーンズ布に刺す瞬間、ほのかな抵抗を身内に感じた。

 「ご案内いたします」白衣のスタッフに率いられて、受付棟から中庭に出た。相変わらず、初夏の陽射しが燦々と差し込む中庭は建物と対照的に明るく、時折聞こえる叫び声がかっきりと明暗のコントラストを生み出していたことを覚えている。

 目的の病棟は、一度エレベーターで地下に降りてから更に何階か昇り、棟から棟を渡った先にあった。こういう移動をされると、自分がどういう道筋を辿ったかわからなくなる。それがシステムの狙いに含まれていることがよくわかった。

 彼女の部屋に着いた時刻は、太陽が南中に差しかかろうとしていた。病棟は手前側が面会用、渡り廊下を挟んで扉の向こうが病室に分かれていた。面会室はベニヤ板張りの小部屋で、やはりあちこちの壁が凹んでいた。休職してから初めて会う彼女はパジャマ姿で、少し頬が痩けていた。長い髪は綺麗に手入れされていて、病院の制限された生活でも凛と背筋を伸ばす彼女の姿勢が伺われた。その姿勢は髪に櫛を入れず放り出しておくより痛ましくもあった。

 「この辺りは自然が豊かだね」
 「春の山はとても美しくて、連休は会社の人と登山に行くんだ」
 「今年はどんな服が流行るだろうね」
 「着物が好きだから花柄の浴衣を買いたいな」

 交わす言葉は当たり障りのない、それでいてどこかしらに会社世界を匂わす事項ばかりだった。仕事の話を避けるほど、仕事の雰囲気は濃厚になった。社会人も二年目になると、世界の大半は仕事で構成されてしまうのだ。一言発するたびに腰掛けた椅子が縮んでいく感覚があった。居心地の悪さに比例して、話題は薄く干からびていく。二人とも沈黙が怖かったのだ。

 「こちらの生活は、静かだよ」
 
 長袖のパジャマの隙間から骨のように細い腕が覗いていた。白い肌の表面に真一文字の切り傷があるのを、私は知っていた。休職の度に傷は増えていった。血のあとが線路のように伸びて、いつか心臓に届くのだ。

  お時間ですよ、と看護師のノックが響いて面会は終了した。心なしか誰もがほっとした顔をしていた。また来るね、とは言えなかった。面会室を出ると、通路には病院食が積まれたワゴンが並んでいた。アルマイトの食器からは、香りのない湯気が無表情に漂っていた。気詰まりが外れて、開けた視界にいくつかの文字が飛び込んできた。壁に貼ってあるのはどれも古びたチラシで(心なしか大学サークルのビラに似ていた)「○○症家族会からお知らせ」「**地区リハビリ講習会」「健康食レシピワークショップ」等の掲示があった。おそらく、面会に来た家族が目を上げたタイミングで見えるように掲示しているのだろう。普段は膜に遮られている世界の、実感が一気に襲ってきた。

 病棟からエレベーターに乗り、元来た中庭を受付棟へ戻る途中に何度か叫び声が聞こえたが、怖じる気持ちは無くなっていた。恐ろしいことに、私はこの数時間でもう適応してしまっていたのだ。

 二人とも、いつしか走り出していた。清濁渾然一体となった、卑俗で猥雑な娑婆へ、帰りたくてたまらなかった。
 

 黒羊の群れの中に白い羊が一匹混ざっていたら、そいつこそが異端なんだ

 いつの間にか、黒羊の側に立っていた
 彼女を追い詰めた無数の目のひとつになっていた
 だからこうして振り返る
 知らぬ間に自分が踏みつけた 聖なるものを思い出すために

カンガルー日和 (講談社文庫)

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 村上春樹の「カンガルー日和」は未読。けれど、あの日は100%の4月の一日だった。