何たる迷惑であることか!

独自の路線で生きています

病というサナギ

わたしにしか語れない物語がある。
 打ち捨てられた感情に息を吹き込み、蘇らせてやらなければならない物語が、ある。


 ***
 誰よりも親愛なるあなたへ

 先日、こんな言葉を耳にしました。

 「思春期とは、サナギのような時期である。サナギというのは硬い殻に包まれて死んだように動かず、外から見ると何が起こっているのかわからない。しかし、サナギの内部ではいもむしが蝶になるという大変な変化が渦巻いている。いもむしが無事に蝶になり、飛び立つためには外側に硬い殻を築き、サナギの時代を過ごさねばならない。同様に人間にも、サナギの時期が必要である」

 これは、有名な臨床心理学者の河合隼雄氏の言葉です。思春期を昆虫のサナギにたとえ、あえて周囲と壁を作り、時に衝突する思春期特有の「反抗期」を人間の成長に不可欠な段階であると捉えています。

 「反抗期」というのはわたしにとって大きなテーマの一つでした。それは、わたし自身に反抗期が存在しなかったからです。わたしは親と口を聞かなくなったり、学校をサボって遊んだりすることが一切ない子供でした。わたしが「良い子」だったからではありません。親にも学校にも、わたしの反抗期を受け止める余裕はありませんでした。

 わたしは、反抗することを許されない子供だったのです。

 わたしは今でも、高校時代の夢を見て起きることがあります。

 夢の中で、わたしは様々な場所にいます。埃っぽい体育館の床、足跡がにじむニスの上、渡り廊下、木漏れ日、バスの音。夜明け前の薄闇の中、カレンダーの日付を確認し、決して巻き戻ることのない時間が過ぎ去っていたことに気づくと、心から安堵します。

 毎日が嵐の中に居るような時代でした。もし、十代の六年間、少女の時代が幼虫から蛹を経て飛び立つための時間であるならば、幼虫が車に轢かれたようなものです。部活動では顧問を筆頭に部活を挙げていじめられ、家庭ではノイローゼの母と勝手に仕事を辞めた父に挟まれ、反抗する隙も甘えも許されませんでした。高校を卒業し、一人暮らしを始めて、ようやく嵐が過ぎ去ったとき、まずわたしはばらばらになった自我を拾い集めるところから始めるしかありませんでした。蛹になる余裕など、どこにもなかった。

 わたしは、蛹を作り損ねたいもむしだったのです。

***

 人間として成熟するためには、遅ればせながら反抗期をやり直さなければなりませんでした。
しかし、今更不登校になるのも、バイクを盗むのも部屋に引きこもるのも、わたしには選べませんでした。

 押し込められた反抗期が、凝縮した形で現れたのが拒食の発症であり、自分を守るための殻が過食でした。

 皮肉なことに、過食に苛まれ、肉体が脂肪で覆われていくごとに、わたしの関心は内面にのみ向いていくようになりました。分厚い脂肪は、鎧というよりも蛹の皮でした。「脂肪と言う名の服を着て」、わたしは丸裸の自己と向き合うことを余儀なくされたのです。

 摂食障害は、わたしを苦しめるための罠ではありませんでした。痩せたからだへこだわり、ひたすら自己を周囲に合わせようとする強迫観念は、わたしを成長させ、成熟に向かわせるための通過儀礼だったのです。


 いま、わたしはとても清々しい気持ちを味わっています。

 もがき悲しみのたうち回った日々が、すべて自分のためになったこと。
 つらい過去に、光を当てて乾かす機会が与えられたこと。
 自分を苦しめるだけだと思っていた病気に、大切な意味があったということ。
 傷にも痛みにも、評価を下さない勇気を持てたこと。

 それが、わたしが病という蛹を経て手に入れた、「成長」であり「成熟」です。


 何も、間違ってなどいなかったのだ。

 

***

 

 70年前、ドイツ占領下のオランダで隠れ暮らす少女は、日記を「わが友キティ」と名付け、心の丈を書き綴り過酷な状況の慰めとした。

 彼女の極めて私的な文章が、今日の人類の宝となっている。

「世界で最も読まれた十冊」―Eテレの100分de名著を見ていてよかった。今こそ、紐解くときが来たのだ。

 

 

『アンネの日記』 2014年8月 (100分 de 名著)

『アンネの日記』 2014年8月 (100分 de 名著)

 

 

 

アンネの日記 (文春文庫)

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 ―「日記はここで終わっている。」この文章は何度読んでも重い。