何たる迷惑であることか!

独自の路線で生きています

精神的成熟は必要不可欠なのだ

成熟しないまま老いるということ

 科学技術が発達する分、精神の成長は遅くなるという。

 産業革命以降、実際に体を動かす経験が日常の中で大幅に失われていった。

 

 日常の動作一つ取ってもそうで、蛇口を捻れば水が手に入るということは、井戸まで水を汲みに行く・水を汲み上げる・汲んだ水を運ぶという経験が失われることである。それは、時間の短縮や体力の節約のみならず、体を動かすことに伴う脳の働きさえも制限してしまうことに他ならない。

 

 精神が幼いまま、肉体だけが成熟するとどうなるか。肉体と精神の間に埋めがたいギャップが生まれる。

 

 肉体の要求に、精神が追いつけなくなるのだ。

 

 肉体は既に生殖の秋に入っているのに、精神はずっと成長期の春を貪ろうとする。

 同じように、精神がようやく次世代への継承を考え始める頃、肉体は滅びの準備を始めている。

 

 予想よりも肉体の老化は早く、不可逆であることに、ひとは若さを失ってから初めて気づく。

 

地球(テラ)へ… (1) (中公文庫―コミック版)

地球(テラ)へ… (1) (中公文庫―コミック版)

 

 

 おそらく、現代人の理想は漫画「地球へ…」に出てくるミュータントのような姿なのだろう。

 

 経過した年月が、肉体に影響しない。歳を重ねても若い肉体が保たれるということ。

(ソルジャー・ブルーも「ぼくたちミューは必要以上に若い姿を保ちたがるんだ」と言っていたし)

 

  だが、現実は逆である。精神の成熟よりも、はるかに早く肉体は老いる。

 老いさらばえた肉体に、幼すぎる精神が取り残されるのだ。

 

本当の成熟となんだろう

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)

 

 

 「猫を〜」の主人公、リトル・アリョーヒンは、マスターの死をきっかけに成長を止めた。長い骨が伸び、喉仏がせり出し、筋肉が発達することを停止する代わりに、永遠の少年で居ることを望んだ。

 

 以前から小川文学には拒食症的要素(というか、拒食症でありたいという願望)が織り込まれているように感じる。拒食症の病理は「子供から大人への成長の行き詰まり」である。「猫を〜」のリトル・アリョーヒンも、食べる量を減らし、小さな服を着続けることで成長を拒否している。ただ、精神面では成熟する。それが時の流れとの折り合いというものなのだろう。

 

 お手軽な欲望に振り回されることなく自制すること。埋まらない理想とのギャップにひとまずは折り合いをつけ、現実世界の一歩を積み重ねること。それこそが現代人の精神的成熟というものなのかもしれない。