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何たる迷惑であることか!

独自の路線で生きています

【レビュー】離断と成長の物語―色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 

~あらすじ~
 三十六歳の男性、多崎つくるは、自分を何の色彩も持たない人間だと思い込んで生きて来た。おおよそ個性というものが見当たらない、無色透明、無味無臭でがらんどうの人間である、と。

 そんな彼にもかつては、色彩にあふれた神話のような時代があった。アカ、アオ、クロ、シロ、そしてつくる。高校の同級生だった彼らは、五人全員が奇跡のような調和を示すサークルとして、理想的な関係を築いていた。しかし、つくるが二十歳になる直前に、突然彼はサークルから離断されてしまう。かけがえのないものを失ったつくるは、心に深く大きな穴を抱えたまま、日々を生き延びることとなった。

 そして現在。年上の恋人に導かれ、つくるはかつての友人たちを訪ねる旅に出る。それは、つくるにとって痛みと向き合い、成長するための巡礼の儀式であった……
~感想~
 鏡で見ると、そこにはもうあのふっくらとした、それなりに整ってはいるがいかにも凡庸で、焦点を欠いた少年の姿はなかった。

(中略)いずれにせよ、多崎つくるという名のかつての少年は死んだ。彼は荒ぶれた闇の中で消え入るように息を引き取り、森の小さく開けた場所に埋められた。

 (中略)そして今ここに立って呼吸をしているのは、中身を大きく入れ替えられた新しい「多崎つくる」なのだ。そしてそれを知る者は、自身のほかにはまだ一人もいない……(pp.50)

 突然、歩いていた地面が割れ、光の見えない落とし穴に落ち込んでしまったような感覚を、「離断」という。それまで何の疑問も持たずに暮らしてきた世界から一方的につながりを断ち切られ、一人ぼっちで「暗い海に放り出される」。離断とは激しい痛みと流血を伴い、時には生死にかかわるほどの大事件だ。だが、それは誰の人生にも何度か、少なくとも一回は起こることではないだろうか。

 本編の主人公、多崎つくるは、青春期に大きな「離断」を経験した。世界から暴力的に切り離されたつくるは、かろうじて感じていた世界との連帯感を失い、精神的に死んでしまった。肉体の死さえ射程距離に見据えて、つくるは糸の切れた凧のように当てもなく彷徨う時期があった。自分のみをこちら側に残して、つくると世界は大きく分断されたのだった。

 しかし、それは彼の人生に欠かせない、通過儀礼でもあった。やわらかい心に大きな穴が開き、そこから深く暗い淵が滲んでいても、彼はきっぱりと死の誘いを断り、「少年」から「大人」になった。彼が望むと望まざるに関わらず、不可逆の反応として、彼は成長した。

 成長の代償として、彼は心の傷と正面から向き合う資格を得た。


 多崎つくるはゆっくり腰を上げ、やってきた列車の一台に乗り、うちに帰った。
心の痛みはまだそこにあった。しかしそれと同時に、彼にはやらなくてはならないことがあった。(pp.150)


 
 つくるはかつての友人たちを訪ねる旅に出た。東京から名古屋へ、名古屋からフィンランドへ、そしてまた東京へ。
 十六年ぶりに会う友人たちは、それぞれの人生を歩んでいた。彼らの中には共有される痛みと、分かち合えない喪失があった。明らかになった「それぞれの」事実と、決して明らかになることのない、「真相」。結局、本当のところ何が起こり、何がつくるを離断しめ、死の淵にまで追い込んだのかはわからない。何故なら、心の傷は癒えたり、消えたりするものではないからだ。息絶えた真実を白日の下にさらしたところで、既にそれは意味を失っている……。

 「ねえ、つくる、ひとつだけよく覚えておいて。君は色彩を欠いてなんかいない。そんなのはただの名前に過ぎないんだよ。(中略)君はどこまでも立派な、カラフルな多崎つくる君だよ。そして素敵な駅を造り続けている。今では健康な三十六歳の市民で、選挙権を持ち、納税もし、私に会うために一人で飛行機に乗ってフィンランドまで来ることもできる。君に欠けているものは何もない。自信と勇気を持ちなさい。君に必要なのはそれだけだよ。怯えやつまらないプライドのために、大事な人を失ったりしちゃいけない」(pp.328)
 

砂粒を飲み込んだ貝が真珠を宿すように、ひとは痛みを物語で包む。生々しく開いた傷口を縫い合わせ、包帯を解いたとき、そこには新しい自分が出来ている。つくるにとって、離断の恐怖は今後も付きまとうだろう。世界から拒絶されることを、彼はこれからも恐れ続けるだろう。しかし、今の彼は恐怖を理解できる。拒絶されて泥にまみれる苦痛を、他者へ愛を求めた代償を、おそらく、彼は受け入れることができるだろう。成長には痛みがあり、痛みの分だけ前へ進んでいるのだ。

 あとには白樺の木立を抜ける風の音だけが残った。

 はたして明日、彼が愛を手に入れられるのかはわからない。確率としては低いかもしれない。愛に破れたその時、彼は今度こそ死んでしまうのかもしれない。無二の友人たちに突然拒絶された二十歳の夏と同じように。光は徐々にスピードを上げて小さくなり、やがて未来の向こうに消える。

 ある日突然、旅立ちはやってくる。ひとつの物語が終わり、また新たな物語が始まるのだ。


***

 萩尾望都先生の「メッシュ」のラストシーンを思わせる静かな、それでいて爽やかな終幕でした。一つの物語がようやく終わり、続いて新たな物語が、切れ目なく我々を待っているのです。