一生の意味について
2011年の3.11以降、ぼくの世界はすっかり変わってしまった。
3.11の直前まで、何となく、ぼくはいつまでも死なないものだと思っていた。
死、というものは必ず訪れるお客のようだけど、それは常に「いつか」という曖昧な霧の中に包まれていた。日常において「死」とは時たま思考の上に現れても、すぐに掻き消えてしまう、蜃気楼のようなものだった。そこにあるのに、そこにない。雲やオーロラや雨上がりの虹と同じく、「死」は言葉の間にだけ存在する極めて希薄な概念だった。
それが、3.11を境にがらりと変わった。板のように穏やかだった海が突如息づき、大津波となっていくつもの町を飲み込んだ。原子力発電所の天井が吹き飛び、みえない雲が地面にしみこんだ。それまで、ずっとそこに在ったはずの家並みが、次の日には瓦礫だらけの更地になった。
多くの人が、あっという間に居なくなった。つい昨日まで、スーパーに買い物に行ったり、車椅子を押したり、釣りをしたりしていた人たちが、こつぜんと消え失せた。
ぼくより若い人も、たくさん亡くなった。卒業式を控えていたあの子、春から入園するはずだったあの子、ホワイトデーを楽しみにしていたあの子も、もういない。
迫り来る死の瞬間、彼らは何を思ったのか。何を感じる暇もなく、それは訪れたのか。ぼくにはわからない。けれども、一つだけはっきりとわかったことは、
ぼくは「いつか」死ぬのではなく、「いつでも」死ぬのだということだった。
地震や津波だけではない。車に轢かれたり、突然の病魔に襲われたり、通り魔に刺されたり、虐待の果てに息が止まったり、頭から縄にぶら下がったりして、人はあまりにもあっけなく、死ぬ。
たいていの場合、人は自分の死に方を選ぶことは出来ない。老衰で緩慢に亡くなるようなケースは稀で、人は望むと望まざるに関わらず、いつのまにか死に回り込まれている。この世に生きるほとんど全員が、非業の死を遂げるのだ。
生まれてからずっと自分を中心に回ってきた人生の結末が、如何ともし難いものに支配されているとして、ではぼくはいったい何を寄る辺にすればいいのだろう?
3.11からずっと、ぼくはそのことばかり考えてきた。今まで、当たり前に保証されていると思い込んできた明日が、次の瞬間にはもう無いのかもしれない。突如、人生が断ち切られるとして、その時生きてきた意味を感じられるだろうか。
何かを残せば良いのか?
何事かを為せばいいのか?
何者かになれればいいのか?
誰かに愛されればいいのか?
人生を賭けて何事かを成し遂げ、自分が何者かであるかを意識出来た人はいいだろう。では、何も成し遂げることなく、生み出すことなく、残すことも託すことも出来なかった人生はどうなるのだろう? その人生は、存在は時の砂に押し流されて、消えてしまうのだろうか?
その答えは未だに見つけられていない。けれども、答えを探す過程で気が付いたことがある。
それは、 今、生きているこの瞬間は、過去にも未来にも存在しない、ただ一度きりの時間である、ということだ。
どんな瞬間も、二度と同じ時間は繰り返されない。自分だけが、自分の時間を生きることが出来る。それは、何にも侵されることはない。
歓びも苦しみも悲しみも虚しささえ、全て自分という一人だけの人生の内容で、他の誰にも代わりは出来ない。過ぎ去った命も、生まれくる命も、全てはただ一度だけ、この世に現れる。
ぼくは、身分も意思も生死にすらかかわらず、二度と繰り返されない自分だけの時間を生きている。それは本当に素晴らしいことなのだ。
地球が太陽の周りを一周し、時計の針は同じ数字を繰り返し巡る。けれども、二度と同じ時間はない。時間は確かに存在する。ただ一度きりの、ぼくの中に。