何たる迷惑であることか!

独自の路線で生きています

なるほど、笑えた

 今年の初めに母方の祖父の葬式があった。2月の冷たい風がぴゅうぴゅうと吹き付ける、研ぎ澄ました刃のように晴れた日だった。

 

 祖父とはここ数年疎遠だった。もともとが人嫌いでひどく気難しく、自分のペースを乱されることを何よりも嫌う人で、連れ合い(つまり私の祖母)を十年以上前に亡くして以降はずっと独り暮らしだった。傘寿を迎えてきっちり1年後に自営の事務所を畳んでからはますます人離れするようになり、夏でも隙間風の吹く丘の上の一軒家に、仙人のようにひっそりと暮らしていた。

 

 祖父は昭和のはじめに生まれ、猛勉強の末に入学した海軍兵学校でエリートとして将来を嘱望されていたが、生徒でいる間に戦争が終わってしまった。実家に戻れば焼夷弾で屋根が焼かれており、学歴もなければ後ろ盾もないただの若者として、生きるために地べたを這いずり回って働くしかなかった。この挫折経験が祖父の性格を決定的なものにした。仕事は真面目にこなすが冗談のひとつ通じず、組織の歯車になるには潤滑性にあまりにも欠けていた。とはいえこの生真面目さが難関資格の試験勉強には役立ち、司法試験の次に難しいと言われる特許弁理士に勉強期間たったの1年で合格している。後年、自分で事務所を経営するようになってからは、だいぶ人生が楽になったらしい。仕事でしか人と繋がる事が出来ない人間でありながら、肝心の対人関係がどうにも不器用であった。

 

 家族に愛情を向ける人ではなかった。正確には愛情のかけ方がわからなかった、と言ってもいいかもしれない。妻が生きていた時代は婢のようにこき使い、子供たちには基本的に無関心で、祖父が歯をこぼして笑ったことなど数えるほどしかないという。家族とのコミュニケーションの作法は否定から入り、一方的な遮断で終わる。こんな父親と積極的に話したい子供がいるわけがなかった。自然に、実家を訪問する足は重くなり、祖母が亡くなってからはなおさら忌避するようになった。触らぬ父に祟りなし、つまりはそういうことだ。

 

 仕事を辞めると同時に祖父は認知症を発症した。独り暮らしが出来なくなって老人ホームに入るものの、人見知りは直らず、ときに脱走してホームの門をよじ登るなどのスペクタクルを起こしては代償のように衰弱していった。死因は脳溢血。朝になっても起きてこないので職員がベッドを覗くと、こと切れていたという。誰にも気づかれることのない、静かな死。

 

 葬儀は市営の小さな葬儀場で行われた。参列者は片手で数える程度しかおらず、図らずもミニマムな葬式であった。火葬場へ行く前に花を持って棺を覗いた。じーさんちっちゃくなっちゃったなあとか思うより以前に、祖父の乾いた顔に施された死化粧があまりに雑なことが目に付いた。まぶたは粉がはみ出してぐしゃぐしゃになっているし、血色をよく見せようとしたのか頬紅的なものが差してあるが明らかに塗りすぎでオカメインコみたいだし、唇といえば刷毛が滑ったのか横に大きく裂けてしまっていて、どれほどやる気の無いピエロでももう少し上手くやるだろうと思うような出来だった。おそらく新人の作だったのだろう。狼狽と焦燥、そして時間切れによる諦めが感じられる作品であった。

 

 粉まみれの中に浮かび上がる、小さく尖った鼻、薄い一重まぶた、肉が落ちてますます引き締まった顎、貝のように閉じられた口。

 じーさんってこんな顔だっけ、いや違うよな、でもどんな顔だったか思い出せない、だって葬式の声がかかるまで忘れていたんだから。

 

 明らかに雑な仕上がりの祖父の顔を見て、祖父とずっと疎遠だったこと、もはや思い出そうとしなかったこと、亡くなったと聞いても何の感慨も浮かばなかったこと、葬儀場に来てもひとしずくの涙も湧かないこと、生きている間にせめて感謝の気持ちだけでも伝えておけば良かった、でもしなかった、それを後ろめたく思う気持ち、保身、偽善、欺瞞、後悔がぶわーーっと吹き出してしまって、なんだかもう泣くとか悲しいとかじゃなくて面白くなってしまって、なるほど、笑えた。

 

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